東北開発研究 1991年、新春 80号
インタビュー 地域振興に賭ける人々 秋田市/秋田ふるさと塾主宰 佐々木 三知夫氏
平成2年2月2日秋田市で「私の地域おこし日記」と題する本が発刊された。1868(慶応4・明治元)年の戊辰戦争で政府側についた秋田藩を援軍した佐賀藩士の墓がとりもつ縁により始まった秋田県と佐賀県との交流について、この本にはその経過が詳しく描かれている。その仕掛け人がこの本の著者である佐々木三知夫さんである。
佐々木さんは、秋田県庁に勤めるかたわら、秋田県を面白くする会や、郷里の大内町で、明日の大内を創る会を結成、主宰し、いろいろな地域づくり活動を実践しているほか、地域づくりの基本は人づくりだという信念から、秋田ふるさと塾を主宰するなど、人づくりにもその情熱を傾注されている方である。
今回は、秋田市に佐々木さんを訪ね、その地域づくり哲学についてお伺いしました。
(聞き手 情報資料室 千田静雄)
《地域づくりへのめざめ》
聞き手 まず始めに佐々木さんが地域づくりにとりかかった経緯を教えてください。
佐々木 昭和46年2月に「秋田県を面白くする会」を作ったのが最初でした。
私が、地域づくりというか地域おこしというか、地域振興に関心を持ったのは、昭和42年夏にキューバの革命の建設の様を見てきた。それがきっかけですね。その当時のキューバは、革命から8年後で、青年達が国づくりに人生をかけていた。それが、非常にうらやましかった。もう目をらんらんと輝かせて、青年達が革命の建設に従事している。
聞き手 キューバに行ったのは、どんなメンバーでしたか。
佐々木 早稲田大学をはじめ都内の各大学の「中南米研究会」の会員で、「日本キューバ学生友好視察団」を組織しました。直接的には人間的なカストロに会ってみたいということが大きな動機でしたね。我々はラテンアメリカの経済発展はいかにあるべきかの研究をしていましたが、キューバは他の中南米の国々と同様に、それまでアメリカ経済の支配下におかれていたのが、1959年に革命をおこし、民主的改革にのりだした。アメリカから経済封鎖されているなかで、キューバの若い青年達が国の建設に賭けている姿をかなり見てきました。それまで商社マンを目指していたんですが、やめたんです。田舎に帰って何かやろうと、キューバの青年のように国づくりとはいかないが、郷里のためにお役にたちたいと考えたんです。
大学を卒業してから農業開発が大事だと思い、東京農大にいって農業を勉強したり、農機具のことも知らなければと、松山の井関農機で研修を受けたりしました。とにかく2〜3年は全国を風来坊をしようと思ってましたので、神戸でブルドーザーの運転手や参議院議員の秘書をしたりしていうるうちに25才近くになったものですから、それで秋田に帰って県庁に入ったわけです。その頃は今ほど、地域づくりなんていう言葉はなく、生臭い世界にいましたから、政治的でなく、文化活動を通じた世直しを考えていました。
《秋田県を面白くする会の結成》
それで、昭和46年2月に東京からUターン組の高校時代の友人4人が、秋田市内の居酒屋に集まって、「久しぶりに秋田に皆帰ってきたんだから、なにか面白いことをしようや」といって出来たのが「秋田県を面白くする会」の始まりでした。何か面白いことはないかではなくて、何か面白いことをしようといって出来たわけです。ですから、とにかく行動が先にたって、会の規約や会費も未だに決めていません。ただ、最近、そのモットーらしき言葉を作りました。「いい汗、うま酒、よき仲間」です。
去年、このモットーを書いた手ぬぐいを100本作り、面白くする会の野球大会などのユニフォームのマークがわりに使っています。
聞き手 面白くする会の構成メンバーは、どんな人達で、どんな活動をしているのでしょうか。
佐々木 メンバーは、会社員とか公務員のサラリーマンや弁護士などの自営業の人達です。この面白くする会の最初の活動は、交通戦争へのささやかな挑戦でした。交通事故の多発地点がなだらかな右カーブにあることが分かり、右カーブ沿いの道ばたに黄色い花を植えたらドライバーへの黄色信号になるだろうと考え、県内の仲間5〜6人に、月見草の種とカードを郵送し、右カーブ地点に蒔いてもらうことにしたのです。
次ぎに行ったのは「花ゲリラ」です。これは、この世で一番欠けているのは情緒ではないかと、秋田一の盛り場である川反(かわばた)の柳並木の根元に、朝顔の種を蒔いたり、水仙の球根を植えたりする情緒づくり運動です。そのほか、目の不自由な人達の民謡グループの発表会、「がんばる愛のコンサート」も5年間続けました。
それから、昭和53年から雪上野球をやっています。これは、ボールはテニスの硬式の黄色いボールを使い、雪の上なので次の塁へのランニングには必ず滑り込みをすることにしております。そしてファボールは4球ではなく、5球までよいことにしております。どんどん打って、そして走っておおいに汗を流そうという訳です。今年2月に、大森町のユキトピアの一環として、全県大会を盛大にやることにしております。
《地域づくりは人づくり》
聞き手 異業種交流というのがさかんですが、秋田県を面白くする会もいろんな職業の人がメンバーになっている。多くの業種の方が集まれば集まるほど、多くの情報、知恵、考え方、そして技術が活用できるという意味で、なにかやるときには良いですね。
佐々木 私も、自分で考えたわけではないですが、地域づくりは人づくりといいますね。ソニーの会長であられた井深大さんが、卒業式で校友代表として挨拶され、「これから君たちは、社会にでるけれども、世の中はそんなに甘いものではない。しかし、最後は人間だよ、人間性だよ」といわれた。 その言葉が頭にこびりついているんです。地域づくりは人づくりだというけれども、一体それはどんな人間づくりか。私は基本的には、地域を愛する人間をいっぱいつくることだと思いますね。地域を愛すれば憂い、何か行動に移さなければならなくなる。
聞き手 地域を愛して、そのなかでなにかやろうという気持ちがでてくるのが一番大事ですね。しかし、そういう考えを皆が持っていても、なかなかその核となってくれる人がいないのが現状ですが、佐々木さんはそれをおやりになっているわけですね。
佐々木 私はいろんなことをやるにしても、基本的には″斜め後ろ″でやってきたつもりです。面白くする会のイベントや、郷里でつくった「明日の大内を創る会」でやっている「とろろ飯大食い大会」にしても実行委員長はやらない。おまえがやれ、といってなかば強制的にやらせてきた。しかし、完全な裏方だと、責任の所在がはっきりしなくなるので、責任はこちらで持つからといって積極的にやらせています。先にだす人は、仲間のこれから伸びそうな人で、私は斜め後ろで見ている。しかし、誰でも強制的にさせられているうちに、いつの間にか、やってよかった、面白かったということになっている。 こうして皆にどんどん伸びていってもらう。また地域がだんだん発展していく、そうした成長の様を見るのが楽しみなんです。
《秋田ふるさと塾の開設》
聞き手 佐々木さんの地域おこし日記を見ますと、「大内あすなろ講」とか「由利本荘ふるさと塾」とか「秋田ふるさと塾」とか、いろんな塾をおやりになっているようですが、このへんにも、地域づくりは人づくりという佐々木さんの信念が伝わりますね。
このなかで秋田ふるさと塾はどんな経緯でできたのでしょうか。
佐々木 平成元年2月に発足しました。県内各地で、いろいろな形で地域づくりを行っているリーダー的な人達を集めて、毎月一回″地域づくり実践セミナー″をやっています。地域づくりをすすめている仲間の交流の場をつくりたいと思っていたんです。
10年前にお会いした日本ふるさと塾(埼玉県浦和市所在)の萩原茂裕先生の薫陶をうけているんです。先生は本当にふるさと創生を哲学にしている方ですね。
私は地域づくりについて、自分の考えとして″地域づくりは親孝行″だと最近いっております。自分を育んでくれた親と同じように、地域は我々を育んでくれているわけですから、地域づくりをすることが、地域の親孝行になるという考えです。
聞き手 よくやっているなあと思いましたよ。きっけは小さいことでしょうけれど。それを発展させていくエネルギーはたいしたものだと思いましたね。
佐々木 地域を面白くしたい、地域に役立ちたいという思いがあるものですから、自分が仕掛けをし、演出し、そして仲間を育て、地域が発展していく、そういう姿を見るのが大変楽しいんですね。あまり肩肘を張らないで、4分6分の発想、つまり4分の遊び、6分の真面目さでやっています。でないと、長続きしなんですよ。
《秋田県の県民性について》
聞き手 秋田県の県民性について佐々木さんはどう思われますか。
佐々木 秋田県の県民性について、その特徴をよく表しているのが民謡ですね。東北の秋田以外の民謡はバラード、ブルース調が多いが、秋田県にはどんぱん節に代表されるように、明るい楽しい唄がほとんどなんです。秋田県は比較的ものが豊富で、経済的にも豊かだったということもありますが、秋田の県民性は基本的には明るいと思いますね。それで陽気な唄が多い。そういう意味で、裏日本とかいいますが、歴史をひもといてみると、後醍醐天皇が首都を秋田の方にもってこいとか、幕末の佐賀の鍋島公が、将来都は秋田に移すべきだなどどいっておられたということです。当時は、北前船(きたまえぶね)もあって、情報も速かったし、一日も速く情報を取り入れようとする進取の精神もあった。当時は表日本だったんです。
東北は一つというけれど、東北にはそれほど一体感がないと思います。ある意味では一体感をつくることが必要ですね。
これからは東北地方も、いい意味での明るさと進取の精神をだしていかねばと思いますね。東北のイメージを高めるにも東北にもプロ野球チームを作りたいですね。中畑清さんなんか監督に迎えて。
《環日本海洋上セミナー》
佐々木 これはさきほどの裏日本の話ではないですが、太平洋側に比較して交通基盤が遅れて、経済が停滞している日本海側の地域の活性化に役立つと考えておりますのが、環日本海洋上セミナーを実現させたいということです。これは、県内各層の青年を日本海沿岸の外国、ソ連、中国、北朝鮮、韓国の主要都市に派遣し、国際交流の実をあげるとともに、国際的視野を広め、来るべき環日本海経済圏時代の認識を深めるというもので、3年後の実施をめざし準備をしているところです。
私が考えている構想は、まず船でソ連のナホトカ・ウラジオストクへ行き、北緯40度ですから、北朝鮮の興南(フンアム)を経由し、釜山に寄り、秋田に帰るという日本海を一周するルートです。船はソ連船で、船代は一日420万円くらいでそれほど高くはない。250人を目標として一人当たりの負担額は20万円でやれます。
環日本海時代がだんだん近づいてきているという感じですが、経済交流も必要ですが、人的交流を深める作業をすすめたい。
ソ連と北朝鮮との国境の図們江に港ができれば、モンゴルにしても、中国東北部にしてもその物資がまっすぐ秋田にくる。ナホトカも秋田が最も近く、ソ連との交流には最適地です。
いずれにしても、その時代が来る前に、いろんな形で人的交流を高めていかねばと思う。
私は秋田地区日中友好協会にも関わっていますが、3年前から中国の留学生の親代わりとなる里親事業をやっています。国際交流は国対国ではなく、個人対個人ですから。そうやって親子関係をたくさん作っておけば、将来の秋田に役立つ人間関係ができてきます。留学生の一人に図們江に近い延吉市の出身者がいるんです。彼は環日本海洋上セミナーに協力したいといっています。
聞き手 たしかに国際交流というのは、いろいろ形がありますが、結局は人と人とのつながりということが大事ですね。そこからいろいろなことが生まれる。国際交流ではないが、佐賀県との交流も、戊辰戦争で亡くなった佐賀藩士のお墓の移転が一つの契機ですが、結局は、秋田県人と佐賀県人の精神的な連帯感が発端ですね。
《佐賀県との交流》
佐々木 佐賀県との交流について簡単に申しますと、昭和61年の春、秋田戊辰の役で戦死された佐賀藩士の墓が砂に埋もれていたのを私の友人が発見したんです。墓の移転前に佐賀県武雄市の遺族がわかり、秋田に招待し慰霊祭をとりおこないました。さらに、翌年遺骨がでましたので佐賀へお届けし、秋田で戦没された54人の佐賀藩士慰霊碑をつくったわけです。また、昭和63年には秋田市で関係者を集めて戊辰の役120年祭を開催しました。
地域づくりは親孝行じゃないけれど、歴史に学び、先人を敬うことが大事ですね。地域づくりに5つのポテンシャル(人、歴史、自然、産業、文化)があると思います。まず、人ですね。先達、先人を掘り起こしていく。立派な人がいるわけですから、その人達に学びながら地域を愛してゆく。秋田・佐賀との交流はこれがたまたまうまくいっただけです。基本的には歴史に学ぶという姿勢が必要で、それがないと、地域づくりはしれ切れトンボに終わっていましますね。やたら、最近は地域づくりというと酒の肴やものづくりに終わってしまいがちです。
聞き手 地域づくりというのは本当に精神的なものがありますね。
佐々木 こうしたきっかけからこのように大きく交流の輪が広がってきたというのは得難いことですね。佐賀県だけでなく、東北一円でも戊辰戦争で敵側になった南部藩、仙台藩、一関藩、庄内藩などとも、こういった人的交流が望まれますね。
聞き手 最後に、佐々木さんにとって「地域づくり」というのは一体何でしょうか。
佐々木 地域づくりは親孝行とか、地域を創ってきた先人を敬うことが基本といってきましたが、秋田は秋田の、地域地域の個性を伸ばすことがやはり必要ですね。その個性を生かしながら広い視野で地域を良くしていく。地域を明るく、面白くしたかったら、自分が明るく、面白い人間にならないといけない。地域づくりは、そういう意味で自己完成への創造の場づくりでしょうか。
≪略歴≫
佐々木三知夫(ささきみちお)氏
昭和21年秋田県由利郡大内町生まれ。43年早稲田大学卒業。46年から秋田県庁勤務。か たわら「秋田県を面白くする会」等を結
成し、地域づくりの実践活動を続ける。現在「秋田ふるさ と塾を主宰。